二千五百年の時を越え、仏教がいまここに完成する

第2章 釈迦の教え

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第2章 釈迦の教え

 
 続いて本節では、仏教の教義についてみていきたいと思います。まず始めに釈迦の教えを簡単に一言で表現するならば、次のようになります。

 「煩悩を無くすことによって苦を克服し、心の安らぎを手にいれる」

これが仏教の核となる主張です。ここで煩悩とは、様々な欲望であったり、怠慢やおごりであったり、物事に対する執着といったものを指します。煩悩は細かく分類すると百八つあるとも言われています。ちなみに大晦日の夜にお寺では除夜の鐘をつきますが、鐘をつく回数が108回なのもこの煩悩の数に由来しているそうです。

 ではこの煩悩を消し去るにはどうすればよいのでしょうか? 釈迦が説いた「煩悩を滅し、安らぎに到達するまでの一連のプロセス」をまとめてみると、概ね次のようになります。

(1)まず初めに「生きることのすべては苦しみである」という世界観、人生観を前提とします。
(2)そしてその苦しみがなぜ生じるかというと、私たちの心の中にある煩悩のせいだと説きます。
(3)ではなぜ煩悩が生じるかというと、この世の中の仕組みや人間のことをよく理解していないからです。
(4)具体的に何を理解していないというと、「この世は無常であり、したがって我にこだわっても仕方がない」ということを理解していません。
(5)もしこのことを深く理解するならば煩悩が消え、ひいては一切の苦を克服し安らぎが得られます。

 以上が釈迦仏教の骨格をなす理論展開です。ここで釈迦仏教が大乗仏教と大きく異なる点は、苦を克服するには各自が修行に励み、上の過程を自らで体得しなければならない点です。大乗仏教のように仏様に祈れば救われるという考えは釈迦仏教にはありませんでした。

 では次に、これらの(1)から(5)について詳しく見ていきたいと思います。

(1)一切皆苦

 釈迦は「この世の一切は苦である」と説きました。
人は望むと望まざるとにかかわらずこの世に生を受けます。生まれてこなければ様々な悲しみや苦しみを味わうこともないのですが、生まれ出ることによって幾多の困難に立ち向かわねばならない人生がスタートします。その意味で生まれてくることや生きることはそれ自体、「苦」であると考えました。

 また病気にかかることも人生の中の大きな苦しみです。現代では優れた薬や手術によって多くの病気を治すことができますが、当時は病気にかかることは、今よりもずっと大きな苦しみを伴うものだったことでしょう。また病気にかからず健康な人生を送れたとしても、いずれは「老い」や「死」といったような、人間であれば誰しも避けることができない苦しみがやってきます。

 これらの生・老・病・死という4つの苦しみは人生のもっとも基本的な苦しみであると釈迦は説きました。さらに、生きていく中で日常的に体験する小さめの苦しみとしては、次の4つをあげることができます。

・愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)
・嫌いな人とも付き合っていかなければならない苦しみ(怨憎会苦)
・様々な欲求が満たされない苦しみ(求不得苦)
・心や体の調子が思うようにならない苦しみ(五蘊盛苦)

 生・老・病・死の基本的な4つの苦しみに、これらを足したものを仏教では「四苦八苦」と呼び、今日では私たちも日常的に使う言葉となっています。

(2)煩悩

 では、このような苦しみはなぜ生じてしまうのでしょうか? 釈迦は、その原因は煩悩にあると考えました。もし満足を知らず欲望の赴くままにお金や物を追い求めれば、やがて願う通りに行かなくなり、結局満たされない苦しみを味わうことになります。また、愛する人や好きな物に終着しすぎることは、やがて訪れるであろう別れの悲しみを増大させてしまいます。また他人に対して憎しみや嫌悪といった負の感情をもつならば、そのこと自体が苦しみのもとになります。さらにその相手とずっと付き合っていかなければならないとなると更なる苦を感じるでしょう。

 釈迦は「このような苦しみを無くすには、そもそもの原因である煩悩を無くすことが最善の策である」と説きました。
 ただしそうは言っても「言うは易く行うは難し」というのもまた事実です。欲望や嫌悪といった気持ちは人間にとって基本的な感情なので、ただ単に「煩悩を消そう」と意気込んでみたところで、うまくいくわけではありません。

(3)無明

 ではこれらの煩悩を消し去るためにはどうすればよいのでしょうか? そのためには煩悩の根本原因である「無明」を断つことが重要だと釈迦は考えました。「無明」という言葉は少しわかりにくいかもしれませんが、簡単に言うと「物事に明るくない」、つまり「物事がよく見えていない」、「真理をわかっていない」、「無知である」といった状態を指します。具体的に何をわかっていないかというと、私たちが生きるこの世界や、人間の本質に対する正しい理解ができていないということです。

(4)諸行無常・諸法無我

 では釈迦はこの世界や人間というものをどのように見ていたのでしょうか?
 まずこの世の在りようについては「諸行無常である」と捉えました。つまり「万物は常に移り変わり、一時たりともとどまってくれない。したがって永遠に続く美しさや、永遠に続く幸せなどは存在しない」という無常観です。ちなみに平家物語の冒頭においても、平家の盛衰と仏教の諸行無常とを重ね、次の有名な一節が詠われています。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを表す
猛きものもついには滅びん、ひとえに風の前の塵に同じ

 ここで祇園精舎とは、釈迦の布教生活の中でもっとも多く滞在した寺院の名前です。また祇園祭りで有名な京都の祇園も元をたどればこの「祇園精舎」から来ています。沙羅双樹については先にも出てきましたが、釈迦が入滅したときにその場に生えていた2本のサーラ樹のことです。

 私たちの日常的な経験や、歴史を顧みるならば「この世は諸行無常である」ということは十分納得できるのではないでしょうか。ではなぜ無常なのかという問いに対して、釈迦はその理由を「縁起」という概念を使って説明しています。
 「縁起」とは「因縁生起」を略したもので、「まず何らかの原因があり、その結果として物事が生じている」という意味です。ちなみに、以前「仏教と科学と相性がよい」と言った大きな理由はここにあります。仏教も科学も「因果関係」を基本として物事を考える点が共通しているのです。

 釈迦は「この世界の出来事は全て縁起によって動いている」と説きました。つまり、ある原因によって一つ(または複数)の結果が生じますが、その結果はまた次の事象の原因となり、何かを引き起こします。このような因果の繰り返しが連鎖となって周囲に様々な影響を及ぼしながら広範囲に伝搬していきます。それはまるでビリヤードの玉が次から次へと隣りの玉を弾いていくように、「因果の波」となって世界全体へと拡散していくのです。

 私たちが住むこの世界を遥か彼方から俯瞰してみるならば、何万、何億、何兆という数の因果の連鎖が網目のようにつながり、お互いに影響を与え合いながら変化し続けています。それはまるで、地球という大きなビリヤード台の上を、何兆個という縁起のボールが飛び交いながら衝突を繰り返しているような状態です。したがってこれら全てのボールを一斉に停止させない限り、全体に広がる因果の波を鎮めることはできません。

 このことが「世の出来事は全て移り変わっていくものであり、一時たりとも止まってはくれない無常なものである」と説かれる所以です。

 また釈迦は人間というものに関して「諸法無我」という見方を示しました。これは一言でいえば「不変的、絶対的な存在としての自我はない」というものです。仏教では、人間は五蘊と呼ばれる5つの要素からなるものと考えます。具体的には五蘊とは人間の身体と、4つの心的要素から構成されています。まずは身体を表す「色蘊」があり、精神的な感受作用、感覚を表す「受蘊」、心の中で物事、表象(イメージ)を思い浮かべる作用を表す「想蘊」、欲求などの心の動き、意志の働きを表す「行蘊」、認識や判断などの心的作用を表す「識蘊」の4つがあります。

 仏教ではこれらの合計5つの要素が一箇所に一時的に寄り集まってできたのが人間だと考え、そしてその中には、自我という永遠不滅で確固とした実体は見出すことはできない、と説かれます。

(5)滅諦

 この世界が諸行無常・諸法無我であるということが分かれば過度に欲望を抱くこともなくなります。そして煩悩が消え、それに伴う苦しみもなくなるでしょう。このことを仏教の教えでは「滅諦」と呼んでいます。
 現存する仏教の経典の中で最も古い種類に分類され、「ブッダ自身が説いた教えに近い記述がなされている」とされる経典「ダンマパダ」に次の節があります。

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
(「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳)

 「この世のすべては変わりゆく存在で、絶対的な自分さえも存在しないのであれば、事物に執着しても仕方がない」と心の底から思うことができれば、富や快楽、自らの健康や命、さらには愛する人との幸せな日々でさえ永遠には続かない、と自覚できます。この自覚があれば何事に対しても心の平穏を保ち、嘆き悲しむことなく過ごせるだろう、と釈迦は教えているのです。

 もちろんこのことを理解したからといって、すぐにすべての苦しみから解放されるわけでありません。不幸な出来事が起きれば悲しみの気持ちを抑えることができないでしょうし、またつい、一時の快楽や富を求めてしまう、という気持ちも完全に消え去ってはくれないでしょう。

 なぜかというと頭では解っていても気持ち、心がついてこないからです。
 釈迦が得たような覚りの境地に達するためには、これらの教えを知識として頭で理解するだけではだめです。心の底からより深く理解することが必要です。釈迦仏教の修行者はこれを実現するために、出家して修行に励みます。そして、そのような覚りに到達するために重要とされる方法が瞑想(禅定)です。瞑想によってこの世の真理を体得し、また煩悩を消し去る努力を行います。そしてこの境地を完全に習得することによって仏陀(覚りに到達した人物)となることができるのです。

 ところで覚りを開いた人は、死後にどのような世界にいくのでしょうか? 

 仏教における死後の世界として有名なものに極楽浄土があります。この極楽をイメージする人も多いかもしれませんが、釈迦仏教には極楽浄土という概念はありません。極楽浄土は大乗仏教の一つである浄土教に出てくるもので、阿弥陀仏が住む仏国土(仏が住む世界)とされています。そしてそこは幸せに満ちた楽園のような世界です。浄土教の教えでは、阿弥陀仏の救いによって死後に極楽浄土にいくことができると説かれています。

 これに対し釈迦仏教では、覚りを開いた人は死後「涅槃」に至るとされています。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」といい、「吹き消す」という意味を持ちます。煩悩の火を吹き消し、安らかで寂静な境地に達するということです。

 覚りを開くこと自体も涅槃と呼びますが、覚った後であっても生きている以上は様々な出来事にであうため、完全に静寂な状態というわけには行きません。そのため覚りを開いた後、死ぬまでの間を特に「紆余涅槃(うよねはん)」と呼び、逆に死んで肉体からも解放され、完全なる涅槃に至った状態のことを「無余涅槃(むよねはん)」と呼んで区別する場合もあります。

 仏教では「一切皆苦」を基本思想としているため、この苦しみから解放された涅槃寂静の境地に至ることが最終的な目標とされています。

 以上が釈迦仏教の概要になります。図1にそのイメージ図を示しておきます。
 

 
【次へ】 第3章 覚りの謎

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