二千五百年の時を越え、仏教がいまここに完成する

第6章 覚りと悟りの違いとは

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第6章 覚りと悟りの違いとは

 
 ところで、「さとり」を漢字で書く際「覚り」と「悟り」の二種類があります。これまで本書では主に「覚り」という漢字を用いてきましたが、この二つはどのように違うのでしょうか。

 仏教関連の書籍を見わたしてみると「覚り」と書かれている場合と「悟り」と書かれる場合の両方があります。またさらには平仮名で「さとり」と書く場合もあります。各々の本の中では統一されていますが、どちらを使うかは本によってまちまちであり、著者の考えや慣習によって何れかが選ばれているようです。

 この二つの漢字表記の意味的な違いについては、歴史的観点からの考察や、洋の東西による区別など、様々な解釈がありますが、現状では統一された見解はありません。科学仏教においては、この二つを独自に区別して扱いたいと思います。

まず「さとり」を広辞苑で引いてみると次のように説明されています。

① 理解すること。知ること。また気づくこと。感づくこと。察知。
②【仏教用語】迷いが解けて、真理を会得すること。

 また、「さとる」で引いてみると

① つまびらかに知る。物事の道理を明らかにする。
② 推しはかって知る。察知する。
③【仏教用語】心の迷いを去って真理を体得する。煩悩を脱して涅槃を得る。

 とあります。これらの意味を見渡してみると共通していえるのは、さとりを「知ること、察知すること」というように捉えていることです。この点を踏まえると「さとり」は知覚の覚でもある「覚り」の漢字を用いた方がよいと思われます。

 では他方の「悟り」とはどうような意味をもつでしょうか。この言葉からは、ただ単にものごとを知る、知覚するということにとどまらず、それ以上の意味をもっている印象をうけます。具体的には、「完全に自分のものにしている」、「見切っている」、「達観している」といった印象です。

 この点を考慮しつつ科学仏教的解釈に基づく「さとり」に対して、漢字を当てはめるならば次のようになります。まず2500年前の「釈迦のさとり」は「人類の最終状態を知覚した」という意味で「覚り」と書くべきものです。

 これに対し現代の私たちにとっての「さとり」は「覚り」と「悟り」の両方のケースが考えられます。まずは「覚り」の漢字をあてる場合、その定義は、

「科学技術によって人類が向かう最終的な到達点は、幸も不幸もない涅槃の状態であると気づき、理解すること」

となります。この科学仏教における覚りは、釈迦仏教における覚り(これまでの仏教における覚り)に比べると非常に簡単で浅い内容です。つまり修行も瞑想も必要としません。ただ気づき、納得するだけです。しかし辞書にもあるように「覚り」のもともとの意味は「気づき」や「知ること」です。この点を考慮し、科学仏教における「覚り」に関しては、神秘性を持ち込まない範囲にとどめておきます。

 続いて科学仏教の「悟り」についてですが、この定義は、

「科学技術によって人類が全知全能に近い状態になり、幸も不幸もない状態(涅槃)に到達すること」

です。つまり未来において人類が実際に涅槃に入った状態を指します。これは単に「何かを知っている」というだけでなく、到達し達観した状況にあるといえるので、漢字としては「悟り」をあてるのが適当でしょう。

 これらの「覚り」と「悟り」を、前著の「人類の一生図」に書き加えたものを図4に示しておきます。

 もちろん人類が実際に涅槃に到達するというのは簡単なことではないでしょう。その日が来るのは百年後なのか、千年後なのか、はたまた2045年の特異点突入の直後なのか、については想像もつきません。しかし前著で紹介したように人類がもし不老不死になれるとしたら、私も一度は涅槃の世界を見とどけてみたい気がします。

 
【次へ】 第7章 般若心経

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