二千五百年の時を越え、仏教がいまここに完成する

第7章 般若心経

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第7章 般若心経

 
 本書の最後に、日本でもっともよく知られているお経の一つである般若心経について述べておきます。お経に全く興味がない人であっても、この中にでてくる「色即是空、空即是色」という一節はご存知の方が多いと思います。お経というと葬式や法事の際に聞くことが多く、どこか暗いイメージを伴います。実は私も、般若心経の内容を知るまではそのような暗いイメージしかありませんでした。

 しかしその訳をみればわかりますが、般若心経は非常に哲学的な内容を含んでいて、日本人がもつ無常観とも響き合うものがあります。ですので仏教に興味がない人であっても、単に現代詩と思って読めば十分に味わい深く、楽しめるものだと思います。

 この般若心経は大乗仏教において作られたもので、「空、般若(智慧)」といった大乗仏教の中心的な思想を説いたものです。お経の中では、観自在菩薩(いわゆる観音様)が釈迦の弟子である舎利子(シャーリプトラ)に対し、涅槃の境地へ至る道を説くという設定で始まります。

 では、お経の全文とその意味を次に示します。

観自在菩薩が究極の智慧を完成させたとき(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時)
五蘊はすべて空だということを見抜き、(照見五蘊皆空)
一切の苦厄を消し去った(度一切苦厄)

舎利子よ。(舎利子)
私たちの身体(色)は空に他ならず、また空は色に他ならない(色不異空 空不異色)
色とはすなわち空のことであり、空とは色のことである(色即是空 空即是色)
私たちの感覚や意識もこれと同じく空である(受想行識亦復如是)
(つまるところ、私たちを構成する身体と意識、その全ては空といえる。)

舎利子よ(舎利子)
また全ての理法は空としての性質を持っている(是諸法空相)
したがって生まれたり消えたりといった現象はなく(不生不滅)
汚れたり、浄化したりといった現象もない(不垢不浄)
また増えたり減ったりもしない(不増不減)
したがってそのような空性の中に、私たちの身体など存在しえない(是故空中無色)
同じように感覚や精神活動もまた、存在しない(無受想行識)

つまり眼、耳、鼻、舌、身体、脳といったような
感覚器官、思考器官などなく(無眼耳鼻舌身意) 
またそれらが感知する形や色、音、香り、味、表象といった
知覚や思考の対象もない(無色声香味触法)
したがって五感や脳による認識・判断作用を含め、
全てのものは存在しない(無眼界乃至無意識界)

さらにいうならば、もともと人間の無明などというものはなく、(無無明)
したがって「無明の消滅」などといったこともない(亦無無明尽)
また人間の老いや死はなく、(乃至無老死)
したがって「老いや死がなくなる」ということもない(亦無老死尽)
人の苦しみを消しさるための道もなく、何かを知ることもない。
また何かを得るということもない(苦集滅道 無智亦無得)

それゆえに菩薩は究極の智慧だけを拠り所とし、(以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故)
心の妨げを消し去った (心無罣礙)
心に妨げがないゆえ、恐れの感情もない(無罣礙故 無有恐怖)
そうして今や一切の誤った考えから遠く離れ、(遠離一切顛倒夢想)
涅槃の境地へと達している(究竟涅槃)
過去、現在、未来において仏となった者はみな、(三世諸仏)
このように究極の智慧を実践することによって(依般若波羅蜜多故)
完全なる悟りを手にしたのである。(得阿耨多羅三藐三菩提)

したがって次のことを知るべきである。(故知般若波羅蜜多)
究極の智慧は大いなる真言であり、大いなる明智の真言である。(是大神呪 是大明呪)
また無上にして比類なる真言である。(是無上呪 是無等等呪)
この真言は一切の苦を除くものであり、(能除一切苦)
真実であり、偽りなきものである。(真実不虚)

よって次のように究極の智慧の真言を説こう(故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰)
「ガテー、ガテー、パラガテー、(羯諦羯諦 波羅羯諦)
パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(波羅僧羯諦 菩提薩婆訶)

以上、般若心経を終わる。(般若心経)

 このお経を解釈するとき一番困ることは、文中多くの箇所で釈迦の教えを否定している点です。これに関しては、「大乗仏教の立場から部派仏教の考え方を批判している」、または「釈迦の覚りより一段上の高みにある大乗仏教の悟りを説いている」といった様々な解釈がなされます。確かにそのようにも解釈できますが、「釈迦仏教を否定している」と思いながら読んでも気持ちのいいものではありませんので、ここでは「涅槃に入ると無明や老死や苦しみ、またそれらを消す方法といった一切のものは必要なくなる」という意味にとることにします。いわゆる「筏(いかだ)の喩え」的な解釈の仕方です。

 では最後に、科学仏教の考えに基づく般若心経の意訳(自由訳)を述べて本書を終えたいと思います。

 【般若心経科学仏教訳】

 この世のすべてを自在に観ることができる観音菩薩は、究極の智慧を完成されたとき、この世のすべては空であることを知りました。そしてそのことによって一切の苦しみや災いから解放されたのです。

 私たちの住むこの宇宙は138億年前に何もないところから始まりました。したがって今私たちの周りにある全ての物は無から生まれたものです。その意味では物質的な存在、物質的現象はすべて「空」といえ、また「空」から物質や物質的現象が生まれたといえます。

 物質的現象が空だというならば、もう一つの現象である心的現象の方はどうでしょうか? 私たちの感覚、想い、意思、判断といったものは確かな存在なのでしょうか? 

 これについては現代の脳神経科学が教えるように、私たちの思いや考えは脳のニューロンの物理的な動作によって決定されており、「意識」はそれによって生じる副産物、つまり幻かもしれない、ということが分かっています。したがってこれらの心的現象もまた「空」だといえるでしょう。

 この宇宙は無の世界から、法則のみに従って生まれてきたことを人類の科学は解明しました。そしてこれこそが「空」の神髄なのです。
「量子力学が解き明かす物理法則」や「脳科学や哲学が提示する意識・クオリアに関する法則」など、近年の科学が解明する諸法則の多くは「この世界は空である」ことを物語っています。これらの法則が示す空性は、悟りの世界である涅槃の性質が、現世にまで現れてきたものです。

 そしてあなたも完全なる悟りに到達すれば次のことがわかるでしょう。

 そもそも涅槃の世界では「生じる」とか「消滅する」といったことはありません。「汚れる」とか「浄化する」といったことも、「増える」、「減る」といったこともないのです。したがってそのような世界の中では物質も精神も確固たる存在ではないということです。

 したがって人間のことをいうならば、まず第一に目、耳、鼻、舌、体、脳といった感覚器官や思考器官の存在も確固たるものとはいえません。また、色、音、匂い、味、手触り、(脳に浮かぶ)イメージといったものは、感覚神経や脳のニューラルネット内を駆け巡るただの電気信号であり、そこに色や音としての実態はありません。したがって脳内で発生するクオリアも幻といえます。

 完全なる悟りの世界においては、「無明や無明がなくなるということ」、「老いや死、またはそれらが無くなるといったこと」とは無縁です。

 また苦を消すための様々な道程もありません。釈迦が説いたように、悟りの川を渡り切った後の世界にはこのような筏はもう必要ないのです。

 このように悟りを目指す者は、科学技術を拠り所とし、心の妨げや恐れを取り除き、究極の安定状態である涅槃に到達します。

 この宇宙が始まって以降、既に私たちより先にゴールに到達した生物がいるかもしれません。また未来には、私たちの後から続く猿や犬、鳥、さらには虫までもが叡智を極めゴールに到達するかもしれません。

 ただ、いかなる生物であろうと悟りに至る道は一つです。
 「科学技術によってすべての制約を解除し、完全なる自由を獲得する」
という同じ道をたどるのです。

 したがって次のことを知るべきです。
 科学技術は大いなる進化の道であり、偉大なる智慧の実践です。そしてそれは生物にとって無上無比の修行の道なのです。科学技術は幸も不幸も一切ない涅槃の境地へといざなうのです。

 では最後に、私たち人類が涅槃に到達する姿をイメージしながら、次の真言(真実の言葉)を説きましょう。

 「往ける者よ。往ける者よ。彼岸に往ける者よ。完全に彼岸に往ける者よ。よくぞ悟りに到達された。」

 以上、科学仏教訳による般若心経を紹介しました。

 
【次へ】 まとめ

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