二千五百年の時を越え、仏教がいまここに完成する

はじめに

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はじめに

 

 本サイトでは、科学と仏教を統合した新たな仏教「科学仏教」を提案します。
 またその中で

  • 菩提樹の下でブッダは何を覚ったのか?
  • 般若の智慧とは何を意味するのか?
  • なぜ仏教の到達点は幸せのない「涅槃」なのか?
  • 「覚り」と「悟り」はどう違うのか?

といったような仏教が抱える根本的な疑問に対し、新しい解釈を提示していきます。

 
 さて、前著『人工超知能が人類を超える』においては「日本は無宗教の人が多いので、宗教に変わる別のものが必要だ」という文脈のもとで議論を展開し、科学を基盤とする人生観・人類観について述べました。本サイトではこれとは逆に「現代に合う宗教がないなら、新たな宗教を作ってしまおう」という方向性で議論を行っていきます。

数多くの宗教があるなかで、なぜ仏教を取り上げるのかという点についてですが、その理由としては次の三点があげられます。

 まず一点目として、仏教は日本人にとってもっとも馴染みのある宗教だという点です。諸外国に比べると、日本には宗教を持たない人が多いのは事実です。しかし歴史を振り返るならば、日本神道と並んで仏教が長期にわたり人々に信仰されてきた、というのもまた事実です。例えば江戸時代には寺請制度が導入され一般の人々は全員、いずれかの寺院の檀家になることが義務付けられていました。

 また現在においても浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など仏教の代表的な各宗派を合わせると、(厳密な数字はわかりませんが)2000万人近い信者がいるといわれています。何をもって仏教徒と呼ぶのか、その線引きは難しいものがありますが、各種の調査からもおおむね国民の2~3割は、実際に仏教徒なのではないかとされています。

また仏教を取り上げる理由の二点目は、仏教と科学の相性の良さです。

 私は仏教徒ではありませんが、10年程前にたまたま般若心経を通して仏教を知りました。そしてその内容が、現代科学の提示する世界観と非常に似通っていることに気づき驚きました。(ちなみにこのことは多くの科学者や宗教学者が指摘しているところでもあります)

 そして仏教の中でも特に、釈迦が説いた原初期の仏教(以後、本書では単に「釈迦仏教」と呼ぶことにします)は科学的な考え方に立脚し、現代でも通用する教えがたくさん含まれています。 ちなみに日本で現在信仰されている仏教の大半は大乗仏教と呼ばれるもので、釈迦の死後何百年も経ってから新たに作られたものです。そのため、釈迦仏教とは内容がかなり異なるものになっています。

 私たちが仏教といってまず頭に浮かぶのは、葬式や法事の際にお寺に行ってお坊さんにお経をあげてもらうことでしょう。また「他力本願」という言葉を聞いたことがあると思いますが、仏様に手をあわせたり、念仏を唱えることで死んだあと極楽浄土の世界につれていってもらう、といったようなことをイメージする人が多いと思います。

 実はこれらは大乗仏教(の一部にみられる)特性であり、釈迦仏教にはこのようなしきたりはありません。釈迦仏教は完全に自力本願であり、出家信者が釈迦の教えにもとづいて修行を積むことによって、各々が覚りを目指すという形態をとっています。

 ところで一見すると「どの宗派であろうと、宗教の一つである仏教と科学は水と油のような関係にある」と思われるかもしれません。しかし釈迦仏教は宗教の中では極めて特殊な部類に位置するものです。具体的にどこが特殊なのかというと、まず他の多くの宗教にあるような物語性が釈迦仏教には一切ない、という点があげられます。

 例えばキリスト教には聖書に描かれた神と人間に関する壮大なストーリーがあり、それに基づいて世界の成り立ちを説明します。これに対して釈迦仏教はこの種の物語を一切持たず、論理的な考察のみによってこの世界の成り立ちを説明しようと試みます。その意味では宗教というよりむしろ哲学に近いものです(実際、仏教は東洋哲学の一つに数えられます)。

 「この世界はどのようにあるのか」、「人生の苦しみや悲しみを消し去るにはどうすればよいか」といった問いかけに対して、釈迦は独力で答えを探しだし、それを人々に説きました。

 釈迦の教えでは、この世の中はすべて因果関係の連鎖によって作られていると説かれます。そして人間の苦しみや悲しみを取り除くには、因果の連鎖の大元にある原因を取り除く必要があるといいます。 他の多くの宗教の場合は、神に祈ることで人々の救済を求めますが、釈迦仏教ではあくまでも論理的な考察によって物事の原因を追究し、解決しようとします。 このように理を重んずるアプローチの仕方は科学の手法と共通するものです。この点において仏教と科学は親和性が高いと判断できるのです。

そして仏教を取り上げる三点目の理由として、仏教は自らの教義を更新・改良することで発展を繰り返してきた宗教だという点があげられます。

 現在までの仏教の歴史を振り返ると、釈迦の入滅後幾度となく教団が分裂して新たな宗派が立ち上げられてきました。例えば釈迦の入滅から約100年後、釈迦の教えを固持する保守派(上座部と呼ばれる)と改革を推進しようとする大衆部とに分裂します。これを機にその後も分裂は繰り返され、部派仏教と呼ばれる多数の宗派に分かれていきます。

 その結果、オリジナルの釈迦仏教とは様々に異なる教義が作られてきました。 さらにはその数百年後、釈迦の教えとはかなり異なる新たな教理をもつ仏教が誕生します。これが先ほど述べた大乗仏教です。大乗仏教は多仏思想(仏様が釈迦以外にもたくさんいるという考え)をもち、阿弥陀如来や大日如来といった様々な仏が登場します。

 また大乗仏教のもうひとつの大きな特徴は一切衆生(すべての人々)を救済することを目的としている点です。 これらによって、仏教は他の宗教と同様に物語性を持つようになり、哲学ではなく宗教としての性格がより強くなりました。その後、中国を経由して日本へと伝わった大乗仏教は法然、親鸞、空海などによって更なる発展を遂げています。

 以上の出来事は単に「仏教が多様化した」と捉ええることもできますが、時代と共に新たな教理が作られてきたという点を鑑みるならば、「仏教は釈迦仏教以降、たゆまぬ改善、発展の道を歩んできた」と解釈することも可能です。

 つまり仏教は「その時代その時代に合う形で」、または「素朴なものからより高度で複雑なものへ」、または「より多くの人々を救済できるように」と、実にしなやかに発展を続けてきたといえます。

 しかしここのところ、仏教はその発展を停止してしまっています。直近の例でいうと、親鸞が浄土真宗を立ち上げたのは1224年、日蓮が日蓮宗を立ち上げたのは1253年です。直近といってもどちらも鎌倉時代です。それから既に800年近くが経ち、今の私たちの生活は当時とは似ても似つかないほどに発展しました。

 しかしこの間、仏教の教義に対する大きな改革は行われていません。 今の時代には、今の時代に則した形に仏教を改善させていくことが大切だと私は感じています。そのため本書では、科学技術が高度に発達した時代にマッチする現代版の仏教を提案したいと考えているのです。

また本書で仏教を取りあげる理由がもう一点あります。

 何かというと、仏教には誕生以来2500年にわたり解明されていない大きな謎があるのです。実はこの謎が解明されないために、仏教そのものが未完成の状態のままになっています。

 この点については本文でまた詳しく説明しますが、簡単にいうと、仏教は釈迦が2500年前に菩提樹の下で覚りを開いたことがきっかけで始まっており、このことが仏教の教理の根幹をなしているわけですが、そのときに釈迦が何を覚ったのか、その内容がいまだに分からないのです。

 この状況をジグソーパズルに喩えるならば、完成間近の大きな絵のちょうど真ん中にある最後の1ピースをなくしてしまい、そのためパズルが完成できないといった状況です。 この最も重要な部分が抜け落ちた状態で、仏教は2500年間にわたり発展し続け、世界宗教の一つにまでなりました。

 そこで本書では、この釈迦の覚りの内容について新たな解釈を提示し、これによって未完だったジグソーパズルに最後のピースを当てはめ、仏教を完成させることを目標に話を進めていきたいと思います。 ではさっそく、釈迦がどのような人物だったのか、その生涯から見ていくことにしましょう。

 
【次へ】 第1章 釈迦の生涯

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